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sometime,somewhere...
Posted by - 2025.01.22,Wed
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Posted by sammy - 2019.05.22,Wed

west coast / Los Angeles, USA


アメリカは憧れだった。
初めてそのアメリカへ行ったのは21年前、1998年の5月だった。
以後、毎年のようにアメリカを旅していた。
元々、野球観戦が好きで本場のMLBを観たらハマったこともあるが、憧れが現実のこととなり、その現実を楽しむかのように出かけた。それが2010年までのことである。
最後に行ったアメリカが2010年11月のロサンゼルスで、この時は中米グアテマラへの中継点がこの街で行き帰りにそれぞれ1泊ずつした。



LAX / Los Angeles, USA


ロサンゼルスはある意味、僕にとって特別な場所でもある。
初めて降り立ったアメリカがロサンゼルスで、この時は空港にクリントン大統領の写真が飾られていた。
「あっ、こういうのって日本と違う!」
それがアメリカの第一印象だった。
両親と家族3人で行った唯一の海外旅行もロサンゼルスだった。
リトル東京にある「一番ラーメン」の味に母は感動し、日系スーパーで買ったヤクルトを飲みながらレンタカーでグランドキャニオンを目指した。
2009年にWBCの野球世界一を観たのもロサンゼルスで、この時はレンタカーを置くスペースもあることからリトル東京の東側にあるボルツハイツと言う地区にある日本人貸し出しの宿へ泊まった。
この宿の経営者が浜田さんで、浜田さんは宿のすぐ近くで「お富さん」という日本食屋を営んでいた。
2010年11月にロサンゼルスを中継点に立ち寄ったのも、行きは野球観戦で知り合ったアメリカ人の知人に会うため、帰りはこの浜田さんに会うためだった。

この時の浜田さんは僕が再訪と言うこともあって、すごく上機嫌だった。いや、上機嫌だった理由はそれだけではなく、僕がグアテマラ帰りだったこともあった。
浜田さんはかつては世界旅行者であり、グアテマラのアンティグアにある伝説の日本人宿「禅」の居候だったこともある。
僕がこの時の旅で泊まったグアテマラ・シェラにある日本人宿「タカ・ハウス」のオーナー、タカさんとも旧知だった。
「浜田さん、グアテマラの話になるとうれしいでしょ」と切り出したのは「お富さん」を一緒に切り盛りしていた弥生さんだった。
トランジットでたった1泊、それも夜9時過ぎに来て明日の朝9時過ぎには帰ってしまう強行軍だったけど、僕はロサンゼルスにわざわざ立ち寄って良かったなとつくづく思ったのも、この晩の浜田さんとの再会だった。



OTOMI Restaurant / Los Angeles, USA


あれから8年半、僕は一度もアメリカへ足を踏み入れていない。
たまたまだったこともあったが、近年は航空券が高く、さらには5日程度しか取得できない休みでは割に合わない行き先にもなってしまった。
その後の浜田さんについては2014年頃に「具合が悪い」らしい話をアメリカ大陸北上の旅人から聞いた。
「お富さん」も今は3代目として弥生さんがやっているみたいだから、浜田さんはもしかしたら?もしかしたのかもしれない…。

僕は今年も、アメリカへ、ロサンゼルスへ行けそうもない。
いや、まだ諦めるのは早いけれど、あの青い空が恋しくてたまらない。
もしかしたらロサンゼルスにはたくさんの思い出があり過ぎて、それらが大切にしまい込むために次を躊躇させているのかもしれない。



Kiss in LAX / Los Angeles, USA


参照:LAの青い空 ~いい人、いい宿~


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Posted by sammy - 2019.02.26,Tue

Tuk Tuk / Bangkok, THAILAND


ガイドブックに誘導されるように名所史跡を廻る旅もいい。僕もかつてはそんな旅をしていたし著名な建造物などを写真に収めては満足していた。
しかし、ある頃からそんな観光旅行だけではなく、行った先の街や村にある雰囲気を写真に写りだしたくなってきた。
そこで暮らす人たちの息吹、歓び、佇み、感じる何かを写真に収め、そうすることによって感じる思いそのものが旅の記憶、記録として僕自身の旅の財産になっていった。
例えば、旅に出ているというのに何もせずにポツンと道行く景色を眺めていたとする。
すると、いろんな物語が浮かんできたりする。
「あっ、このゴチャゴチャ感は整然とした日本では感じられないなぁ」とか、妙に愛想のいいおばさんと目が合ったりすると日本では常識的に目をそらすのに写真を撮ろうとして更に愛想のいい笑顔を引き出してみたり。
それらは旅が成せる技だと思っている。
だから、旅に出るのが楽しい。



smile / Bangkok, THAILAND


2019年2月、僕はバンコクの下町ヤワラーにいた。
そこは言わずと知れた中華街であり、メインのヤワラート通りは人々であふれかえり、そのあふれは屋台ひしめく猥雑な路地へと波及していたが、その周辺は賑わいとは裏腹に静かな下町だった。
泊まっていた「103 Bed&Brews」はファランポーン駅から至近の奮い建物が立ち並ぶ下町界隈の中にあり、ここを知ったのは雑誌「BRUTAS」での紹介からだった。
ホテルの役割でありながら周囲の建物の中に溶け込む古い家屋そのものをリノベーションした小綺麗なゲストハウス。
まさにこの街そのものを感じることができる「103 Bed&Brews」を拠点に周囲の散策を楽しんだ。



103 Bed&Brews / Bangkok, THAILAND



Yawarat Rd / Bangkok, THAILAND



boys in the alley / Bangkok, THAILAND



old clock / Bangkok, THAILAND



alley / Bangkok, THAILAND



fruits / Bangkok, THAILAND



an old man / Bangkok, THAILAND



badge / Bangkok, THAILAND



strawberry smile / Bangkok, THAILAND



cats & woman / Bangkok, THAILAND



lunch time in the alley / Bangkok, THAILAND



103 Bed&Brews / Bangkok, THAILAND


Posted by sammy - 2019.02.15,Fri

2013 sunset / Jaisalmer, INDIA


1999年2月14日、僕はインド西の果てジャイサルメール旧市街で男二人、アイスクリームを頬張っていた。
「今日がバレンタインデーだって言うのにオレたち二人、チョコももらえずに冴えねぇなぁ!」
「でも、このアイス美味い!満足、満足」
僕ともう一人はこの街の安宿、ホテル・レヌカで親しくなったヒロシで彼はアテもなくこの広いインドをぐるぐる旅していた。
今は民営化されてしまったが僕は当時公務員で、インドに限らず長旅をしている奴と言えば職に就けずに(いや、就かずに?)自由気ままに人生を謳歌したい通称フリーターか、僕のような年休をまとまって消化させてくれる公務員さんばかりで、ヒロシは前者にあたっていた。
ホテル・レヌカには他にも多種多彩な面々が泊っており、インドの西の果てだと言うのに屋上のレストラン兼憩いの場は間近に見るこの街の象徴フォートの眺めと共に、日本人バックパッカーの誰かしらと常に会話が弾んでいた。
ヒロシはその中でも気が合って意気投合した旅人。
この前日、僕は1泊2日でこの街の観光の目玉、キャメル・サファリに行っていて、この晩にはデリー行きの夜行寝台に乗って旅の基点デリーに戻ることになっていた。



2013 Fort / Jaisalmer, INDIA



2013 Jaisalmer Town / Jaisalmer, INDIA


僕にとってインドはこの時が初めてで海外旅行は始めて4年目で通算5回目。それがインドだったのは紀行本とか読みあさるうちに未踏の地インドへの思いが膨らんでしまったことにある。
とにかくディープな旅をしてみたくなり、それはそれまで2度旅したタイでは気持ちが収まらず気持ちはインドへ一直線。
「蔵前仁一(旅作家)のようになってやろう」と高まるばかりだった。
そんな勢いで行ったインドだから、2週間ほどの日程で著名な観光都市を行き尽くすような行程を組み、切符はすべてニューデリー駅で購入し、時刻表もキオスクで買った。
今だったら「ネットで…」となるが、当時はそれこそ何時間もかかったが長い列に並び、そこで旅の情報収集をしたり、ひとり旅でもお互いに仲間が出来たりした。旅仲間が集結する場でもあったわけだ。
デリーではバックパッカーお決まりのメインバザールに泊まっていたが、道端で日本人を見つけるとそこでも話が始まり、僕も葉っぱ目当ての旅人につかまって夕食を共にした時は、まるで夢の中にいるかのような幻想的な話を彼から聞いたりした。
旅に出ると、いろんな人たちに出会える。
どこそこへ行くという旅本来の目的以外に、インドへ行くとそれまで行ったタイ以上に変わった人たちやよりディープな人たちに出会える。
インドの旅は予想通りに面白く、それはまさしく「出会い」という旅の醍醐味を味わっていた。
ヒロシとも「またいつか、どこかで会おう!」と言って住所交換もして別れた。
僕の体調不良が始まったのはこの翌昼、デリーに到着してからだった。
列車はメインバザールのあるニューデリー駅ではなくオールドデリーにあるデリー駅着だったので、リキシャーと例のごとく値切り交渉をしてやっと叩き出した料金でメインバザールへと向かったが体が重い。
思い切ってホテルは安宿ではなくメインバザールの中では高級な部類に入るホテルにし、この日は終日体を休めることにした。
夜は濃いインド食を食べる気になれず、ガイドブックに載っていたインド門近くの日本食屋まで行きうどんを食べた。
今であれば海外の日本食屋はどこも日本と同じように本当の日本食を食べられる店が当たり前になったが、当時は「なんちゃって日本食」がインドあたりでは当然であって、このうどんもキャベツとかが入った日本では見かけないうどんだった。



2013 Main Bazar / Delhi, INDIA


翌朝、体の重さやだるさはなくなっていたがお腹はゆるかった。旅はできそうである。
この日はタージマハルのあるアグラーまで行き、そこで終日観光した後、夜10時過ぎの列車でバラナシまで行く。さらにはカルカッタまで行き、最後は一気にデリーまで戻って帰国する日程だったから強行軍である。
アグラーではタージマハルの美しさに圧倒され、5度目の海外旅行だった僕は思わず「今まで見た建造物の中で一番美しい!」と唸った。これはおそらく、20年経った今でも一番だと思う。ただ、あの時の衝撃度から覚えた感動は2度と味わえないと思う。
結局この日はアグラー城を挟んで終日、タージマハルを夕暮れまで堪能した。
夜10時過ぎの列車までは駅構内にあるリタイア・ルームと呼ばれる有料の待合室で休んだ。ここだとベッドもシャワーもある。こうして休むことで強行軍も凌げると企んでもいた。

バラナシへの列車の出発前は日本人女性と同じ列車と言うことで親しくなり、呉越同舟となった。
座席は指定されていたが列車内は床が人人人で埋め尽くされており、自分の座席に勝手に座っている輩を追い出してやっと座れるような状況だった。
僕と彼女はとりあえず近くに寝台として寝られる座席を確保できたが、ただでさえ疲れているところへこの状況へと入り込み、ドッと疲れが押し寄せてくる。にもかかわらず、今までの寝台列車では何事もなかったから、バックパックは座席下に鍵をかけてさらには持っていかれないようにチェーンで座席の足に括り付けて眠りについてしまった。
夜、目が覚めた時に床に座る男と目が合い、「何もないよ、大丈夫だよ」とばかりに男がにやけて見せたが朝方、気が付いた時にはバックパックの中は空っぽだった。
それに気づいて起き上がった隙のわずか数秒で寝床に置いてあったサブバックも盗み取られ、残ったものは胸にしまい込んでいたパスポートとわずかなお金だけが入った財布だけになってしまった。

それからバラナシへ着くまでの半日あまりは不思議と開き直った自分が、走馬灯のように流れる景色をただずっと見つめているような時間だった。
自分で自分がどういう決断を下すのか楽しんでもいた。
そして僕の初インドはバラナシ到着と共に終わった。



2007 sunrise / Varanasi, INDIA


駅構内にある鉄道警察で盗難証明書を発行してもらい、そこで近くの旅行会社を紹介していただき、当日のバラナシ~デリー、デリー~成田の航空券をカードで購入し、逃げるように帰国した。
ゆるかったお腹がさらにゆるくなったのは帰国後だった。

「インドなんか2度と行くかっ!」と言い続けていたが、悪いのは盗みをするインド人だが、そうさせたのは自分でもある。盗めるようにしているから盗まれるのであって、これは文化の違いだと後に気づいた。要は盗まれないようにしていればいいのである。
そんなこんなでそれから5年経った2004年にタージマハルとあの時、駅に着いて終わったバラナシ限定で再訪をした。
そして2013年にはずっと、自分自身が夢の中にいるような記憶だったジャイサルメールの街へも再訪している。
初インドではカメラもフイルムもメモもすべて無くなっているから、僕の中で残っているものは記憶しかない。その記憶では、僕の中では中世に栄えたジャイサルメールの街並みは夢の中にいるような場所だった。
ヒロシとバレンタインデーに男二人で食べたアイスクリームのことは20年経った2019年の2月14日にふと思い出した。
職場で貰う義理チョコもいいけれど、男二人がインドで淋しく食べたアイスクリームは今も思い出として残っている。
あの日、僕はインドにいた。
20年後、そう思えるような旅を今の旅人はしているだろうか...。



2013 Jaisalmer / Jaisalmer, INDIA


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1月末の新聞記事に「海外旅行者がピークだった20年前の年間450万人と比べて、近年は3分の2の年間300万人に減っている」と載っていた。
中でも若者の渡航者数が減っているらしく、政府は助成金を出して渡航を促す案も検討中らしい。
確かに、ここ数年は若者に限らず、海外で遭遇する日本人バックパッカーの数は激減していると感じる。
以前は当たり前のようにあった「出会い」も減ったし、2000年代は韓国人が急増したが最近は日本人に見える旅人は大半が中国人。
同じように旅をしていて海外で出会って意気投合することもほとんど無くなった。
僕はスマホを持たない旅人だが、タブレット端末は「念のため」持ち歩くので情報収集は自ら出来てしまう。
以前のようなアナログな旅にあった煩わしさは便利さに補われ、旅の面白みを削ってしまったのかもしれない。