sometime,somewhere...
Posted by sammy - 2009.12.31,Thu
今年1年を振り返る2009年大晦日。
僕の中で幾回もの旅にも勝る最大かつ最高の感極まるシーンは、3月23日夜のドジャーススタジアムWBC決勝、延長10回表にイチローが決めた「伝説のセンター前ヒット」での決勝打であり、優勝を決めた瞬間でもある。
おそらく2009年のこのシーン、感激、感動は一生の中で忘れ得ぬ大きな思い出として後世まで刻まれ続けると思う。
![](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/1ecf7d23977a2483f6e2b0d8c0f57a7a/1261911849?w=500&h=333)
WBC Champion, Team JAPAN
この試合。
僕は10年来の知人であり野球観戦仲間であるLA在住のKさんと一緒に観戦へ出かけた。
Kさんとは同い年、同郷のよしみもあり、今までにも何度となくドジャースタジアムでの観戦に行っているが、この日を迎えるにあたっては実に5年ぶりの再会でもあった。
残念ながら、いつも一緒に観戦に出かけていた奥さんは日本へ帰国中で不在だったが、当日券にも関わらず2階席の前方に近い$130のチケットを2枚ゲットし、球場へと入る。
2人の気合は満点だった。
普段はクールなKさんだが、この日は終始熱かった。
それもそのはずだ。
試合後の食事でKさんは僕に、「甲子園を思い出したよ」と語ってくれた。
地元では有名な甲子園常連校の野球部に在籍していたKさんは1年の時に、甲子園のスタンドで母校の応援をしている。
そんな熱き炎が甦ったのがこのドジャースタジアムでのWBC決勝でもあり、その熱き炎は僕にも引火し、いい年をした2人は3月の底冷えするスタンドで燃え上がった。
しかし、そんな熱き炎はスタンドの大勢を埋め尽くした韓国人らも同じだった。
9回裏、ダルビッシュが異様なまでのスタンドの雰囲気に飲み込まれ、よもやの同点打を浴びると、それはもう地鳴りでは済まないほどの大きな揺れがスタンド全体を襲った。
あのドジャースタジアムが本当に大きく揺れた現実に韓国の底力を思い知らされた。
そして迎えた10回表。
内川が打つ、岩村が打つ。
ここで出てきた川崎が無念の凡退に倒れる。
ダメかと思った…。
でも、ここで打席に向かうのは誰でもない、あのイチローだ。
2死1,3塁のこの場面で1塁ランナーの岩村が走る。もちろん、打者に集中している韓国バッテリーは無警戒でセーフになるが1塁ベースは空いてしまった。
僕もKさんもイチローが敬遠となるだろうこの盗塁を悔やんだ。
しかし…
マウンドのイム・チャンヨンはそれでもイチローへの勝負を挑んだ。
この大会、不振を極めたイチローは明らかに舐められていた。
この場面においても、打ち取られる確信の元、韓国バッテリーに勝負を挑まれたのである。
この挑戦に僕とKさんも燃えた。
これはもう、国と国との喧嘩だった。
そして…。
必死にファールでかわすイチローが仕留めた8球目のボールは、美しいまでに鋭い軌道を描いてセンター前へと運ばれる。
これが、日本野球史に後世まで残るだろう「伝説のセンター前ヒット」である。
この瞬間もう、声にならないくらい叫び、そして歓んだ。
気がつけば、僕もKさんも抱き合っていた。
重ね重ね言えば、いい年をした2人である(笑)。
その裏、ダルビッシュが先頭打者をフォアボールで出すも、後続の3人をピシャリと抑え、サムライ・ジャパンがWBC2連覇を達成した。
![IMG_2420b.JPG](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/1ecf7d23977a2483f6e2b0d8c0f57a7a/1261911838?w=500&h=333)
この試合、ドジャースタジアムへ詰めかけた観衆はWBC史上最高の54,846人。
その大半は青いサンダー・スティックを持った韓国人たちだったが、試合が終わり、興奮状態で気づかなかった僕がふと周囲を見渡すと、あれほどまでにスタンドを埋め尽くしていた韓国人らは潮が引いたかのように消え去り、代わってこれほどまでに観に来ていたのかと思えるほどの日本人たちの大喜びする姿が球場全体にあった。
![P1010249b.JPG](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/1ecf7d23977a2483f6e2b0d8c0f57a7a/1261911861?w=500&h=333)
![IMG_2398b.JPG](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/1ecf7d23977a2483f6e2b0d8c0f57a7a/1261911820?w=500&h=333)
試合後。
レフト後方にあるクラブ・ショップは優勝記念品を買い求める日本人で長蛇の列が出来、ドジャースタジアムを囲む広い駐車場へと続く夜道は、どこもかしこもパーティーのような騒ぎで盛り上がっていた。
その騒ぎはダウンタウンにあるリトル東京へと続き、ロサンゼルスにしては珍しい深夜まで飲食店の開いているこの界隈は、興奮冷めやらない日本人客らでどの店も満員で座ることも出来ず、僕とKさんがようやく夕食のテーブルにつけたのは深夜1時前、チャイナタウンのレストランだった。
* * *
みんなが燃えた2009年3月23日の夜。
あの感動、あの瞬間は一生語りつくしたい。
僕の中で幾回もの旅にも勝る最大かつ最高の感極まるシーンは、3月23日夜のドジャーススタジアムWBC決勝、延長10回表にイチローが決めた「伝説のセンター前ヒット」での決勝打であり、優勝を決めた瞬間でもある。
おそらく2009年のこのシーン、感激、感動は一生の中で忘れ得ぬ大きな思い出として後世まで刻まれ続けると思う。
WBC Champion, Team JAPAN
この試合。
僕は10年来の知人であり野球観戦仲間であるLA在住のKさんと一緒に観戦へ出かけた。
Kさんとは同い年、同郷のよしみもあり、今までにも何度となくドジャースタジアムでの観戦に行っているが、この日を迎えるにあたっては実に5年ぶりの再会でもあった。
残念ながら、いつも一緒に観戦に出かけていた奥さんは日本へ帰国中で不在だったが、当日券にも関わらず2階席の前方に近い$130のチケットを2枚ゲットし、球場へと入る。
2人の気合は満点だった。
普段はクールなKさんだが、この日は終始熱かった。
それもそのはずだ。
試合後の食事でKさんは僕に、「甲子園を思い出したよ」と語ってくれた。
地元では有名な甲子園常連校の野球部に在籍していたKさんは1年の時に、甲子園のスタンドで母校の応援をしている。
そんな熱き炎が甦ったのがこのドジャースタジアムでのWBC決勝でもあり、その熱き炎は僕にも引火し、いい年をした2人は3月の底冷えするスタンドで燃え上がった。
しかし、そんな熱き炎はスタンドの大勢を埋め尽くした韓国人らも同じだった。
9回裏、ダルビッシュが異様なまでのスタンドの雰囲気に飲み込まれ、よもやの同点打を浴びると、それはもう地鳴りでは済まないほどの大きな揺れがスタンド全体を襲った。
あのドジャースタジアムが本当に大きく揺れた現実に韓国の底力を思い知らされた。
そして迎えた10回表。
内川が打つ、岩村が打つ。
ここで出てきた川崎が無念の凡退に倒れる。
ダメかと思った…。
でも、ここで打席に向かうのは誰でもない、あのイチローだ。
2死1,3塁のこの場面で1塁ランナーの岩村が走る。もちろん、打者に集中している韓国バッテリーは無警戒でセーフになるが1塁ベースは空いてしまった。
僕もKさんもイチローが敬遠となるだろうこの盗塁を悔やんだ。
しかし…
マウンドのイム・チャンヨンはそれでもイチローへの勝負を挑んだ。
この大会、不振を極めたイチローは明らかに舐められていた。
この場面においても、打ち取られる確信の元、韓国バッテリーに勝負を挑まれたのである。
この挑戦に僕とKさんも燃えた。
これはもう、国と国との喧嘩だった。
そして…。
必死にファールでかわすイチローが仕留めた8球目のボールは、美しいまでに鋭い軌道を描いてセンター前へと運ばれる。
これが、日本野球史に後世まで残るだろう「伝説のセンター前ヒット」である。
この瞬間もう、声にならないくらい叫び、そして歓んだ。
気がつけば、僕もKさんも抱き合っていた。
重ね重ね言えば、いい年をした2人である(笑)。
その裏、ダルビッシュが先頭打者をフォアボールで出すも、後続の3人をピシャリと抑え、サムライ・ジャパンがWBC2連覇を達成した。
この試合、ドジャースタジアムへ詰めかけた観衆はWBC史上最高の54,846人。
その大半は青いサンダー・スティックを持った韓国人たちだったが、試合が終わり、興奮状態で気づかなかった僕がふと周囲を見渡すと、あれほどまでにスタンドを埋め尽くしていた韓国人らは潮が引いたかのように消え去り、代わってこれほどまでに観に来ていたのかと思えるほどの日本人たちの大喜びする姿が球場全体にあった。
試合後。
レフト後方にあるクラブ・ショップは優勝記念品を買い求める日本人で長蛇の列が出来、ドジャースタジアムを囲む広い駐車場へと続く夜道は、どこもかしこもパーティーのような騒ぎで盛り上がっていた。
その騒ぎはダウンタウンにあるリトル東京へと続き、ロサンゼルスにしては珍しい深夜まで飲食店の開いているこの界隈は、興奮冷めやらない日本人客らでどの店も満員で座ることも出来ず、僕とKさんがようやく夕食のテーブルにつけたのは深夜1時前、チャイナタウンのレストランだった。
* * *
みんなが燃えた2009年3月23日の夜。
あの感動、あの瞬間は一生語りつくしたい。
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Posted by sammy - 2009.12.27,Sun
Mr.Craig Stanford, South Pasadena CA, U.S.A.
今年3月、WBC準決勝の日本対アメリカ戦を一緒に観戦したのは以前、「カリフォルニアからのメール」でも紹介したロサンゼルス在住の南カリフォルニア大学教授であり人類学者でもある大のベースボール・ファン、クレイグ・スタンフォード。
そのクレイグの南パサデナにある家へお邪魔したのが22日の試合前。
パサデナはもちろん、アメリカ人のお宅にお呼ばれされてお邪魔すること自体が初めての体験だったが、クレイグからのご好意に甘え、出会った3年前のWBC観戦時と同じ福留Tシャツを着込んでのお邪魔となった。
南パサデナはロサンゼルスのダウンタウンからフリーウェイを15分ほど北へ走った場所にある、閑静かつ美しい住宅街である。
教えていただいた住所を元に、レンタカーに備え付けのナビを頼りに行くとクレイグの家はフリーウェイの出口を出て1ブロックほどの角を曲がった先にあった。
約束の訪問時間は午後1時半。
少々早めの到着をしてチャイムを鳴らすと、しばらくしてバスタオルを巻いたクレイグが中からドアを開けてくれた。
時間前だったと言うことで彼はシャワーを浴びて準備をしていたそうで、これには思わず「I'm sorry!」だった。
中へと招き入れてくれたクレイグはさっそく、お約束のランチとしてハンバーガーを手作りでクックしてご馳走をしてくれた。
肉汁たっぷりの熱々のハンバーガーは実に美味い!
人類学者だけあってリビングにある本棚にはそういった研究書籍に加え、世界各国へ研究に出向いた際に活用したロンリープラネットなどのガイドブック類も多々あった。
そして、この日本からの訪問者のために、クレイグは自身が記した著書「直立歩行 進化への鍵」と日本語に翻訳された1冊の本を「For xxx, best wish, to a great baseball fan!」のサイン付きで僕へプレゼントしてくれた。
同じくリビングにあったテレビからは、今年から始まった24時間ベースボール・オンリーのケーブル・チャンネル、「MLBネットワーク」が流れていた。
NY出身のクレイグはベースボール・ファンであると同時に、大のヤンキース・ファンでもある。
「つい先ほど、オープン戦でヤンキースのイガワが投げていたよ」と僕に教えてくれた。
当初、今日のこの観戦はクレイグと長男のアダム、そして僕の3人で行くことになっていたが直前のメールで「アダムが風邪をひいて代わりに娘が行くことになった」と伝えてくれていた。
ただ、僕はこのメールが日本出発後に届いていたためにこの時まで知らないままだった。
クレイグは自身の勉強や研究のためか、家族とは別にこの招待された家を借りている。
彼の家族はこの家から数ブロック先の古い家に住んでいると言うことで、そちらへ立ち寄ってから娘を乗せてスタジアムへ行くことになった。
家族の住む古い家は車で行けば1,2分の場所にあり、こちらも中々ステキな家だった。
中へ入ると出迎えてくれたのは3年前にスタジアムでも会っていて面識のある長男で12歳のアダム。
心配された風邪はすっかり良くなった感じだったが、3月の肌寒いナイター観戦にはまだまだ無理があるようで今日の観戦はお預けだった。
そのアダムと一緒にリビングで寛いでいたのが長女で19歳のゲイランと次女で15歳のマリカの2人のお姉ちゃん。
共にソフトボールの選手で、そのコーチは父のクレイグだというから筋金入りのベースボール・ファミリーである。そう言えば、後日チェックした行き違いだったメールには娘の紹介でクレイグがこう書いてあった。
「she is a very good softball player.....」
娘2人は共に運動神経がいいようでポジションはセンターラインのショートとセンター。次女のマリカはピッチャーまでこなすらしい。
今日、これから一緒に観戦に行くのは長女のゲイランだった。
彼女はソフトボール選手でもあり医大生でもある。頭の良さも父親譲りかもしれない。
Mr.Craig & his daughter, Gaelen in Dodger Stadium
向かった先のドジャースタジアムはフリーウェイを下ればすぐである。
車社会ロサンゼルスらしく、スタジアムの入口はそのままフリーウェイの出口でもある。
クレイグの車は日産の高級車インフィニティで、スタジアムまでの途上は静かなジャズのCDを流してくれていたが、僕からの勝手な注文でスタジアムへ入る間際には持参したYAZAWAのCDを流してもらった。
そう、流していただいた曲はあの矢沢永吉の「止まらないHa~Ha」である。
これには後部座席に座っていたゲイランも気合の入ったメロディー(?)に「ヒュ~~!」と叫んで笑っていた。
矢沢もかつては今日のサムライ・ジャパン同様にアメリカへ挑みに、このロサンゼルスへ乗り込んだ。
そんな僕なりの思い入れがこの入場曲であり、アメリカ人と一緒にアメリカ戦を観に行くと言う宿命になってしまったにもかかわらず、無礼を承知でお願いをした。
それだけ、僕の気合は満点だったわけだ。
* * *
試合は、初回にいきなり先発の松坂がブライアン・ロバーツに先頭打者本塁打をセンター・バックスクリーンに運び込まれたが、4回裏一気にアメリカ先発のオズワルトを攻め立て、連打やエラー絡みで5点を奪って逆転し、終わってみれば9対4の圧勝で決勝進出を決めた。
試合中、福留が打席に入る度に立ち上がって「コースケ~!」と絶叫する僕にクレイグは大喜びだった。
思えば3年前、世紀の大誤審があったアナハイムでの日本対アメリカ戦、偶然にも僕の隣に座って観戦していたクレイグは、数々の日本人選手や日本のプロ野球への質問を僕に繰り返し、日米のベースボールへの興味を沸かせていた。
その中で中日ファンでもある僕が一押ししていたのが福留孝介でありその後、福留はシカゴ・カブスのレギュラー外野手へと成長してこの大会へ参加している。
時は経ち、何人もの日本人選手がメジャーで活躍する姿をクレイグもまた、歓迎してくれていた。
帰り際、南パサデナの自宅前でクレイグが僕にこう問いかけた。
「See you again in here?」
「Yes! Off course!」
Posted by sammy - 2009.12.24,Thu
Hermosa Beach, LA
どこまでも爽快なまでに青く澄み渡っていた、3月のロサンゼルスの青い空。
わずか4泊5日の無理矢理つめ込んだかのような短き旅の中で、僕は出会いと再会と、そして言葉で言い尽くせないほどの歓びを味わった。
* * *
そもそもこの旅はリスクを伴う想定から始まっていた。
目的はあくまでWBC観戦。
それも休暇が最大5日しか取れなかった僕にとって、最大限に活かせる日程は決勝トーナメント3試合を確実に観戦できる3月20日の出発しかなかった。
しかし、お目当てのサムライ・ジャパンが確実にここまで勝ち進める確証など何も無い。
それどころか、そこへ至るまでの厳しい戦いの連続に、「何でこんな旅の計画をしたんだろう…」と自問自答する日々が出発直前まで続いた。
だからなのか3月20日夜、成田を発つ僕の目に飛び込んだ搭乗口の「ロス・アンジェルス」の文字に思わず目頭が熱くなり、こみ上げる感情を抑えきれないほどの興奮を覚えた記憶がある。
何はともあれ、僕は3月20日の午後、ロサンゼルスへ降り立った。
* * *
空港でレンタカーを借りて向かった先はダウンタウンの東側、ボイルハイツという地区にある日本人経営の宿「はまだ宿」だった。
宿と言うよりは一軒家のアパートメントの各部屋を、1泊わずか$25の安さで提供している格安のレンタル・ルームで、この安さでありながら裏には十分な駐車スペースもあり、まだ肌寒い3月のLAにはありがたいバスタブ付きの風呂もあった。
ダウンタウンから延びる1st. street 沿いにある「はまだ宿」建物の外観
この宿のオーナーはその名のとおり、浜田さん。
この旅で得た出会いは、この浜田さんとの出会いだった。
浜田さんはかつては世界中を旅したバックパッカーでもあり、現在はこの「はまだ宿」の斜め前にあるLA最古の日本食レストラン「お富レストラン」の3代目オーナーでもありシェフでもある。
この「はまだ宿」。
ネットでもガイドブックでも大々的に紹介されるようなことはしていない。
唯一と言っていい紹介元は2008年初頭に発売された「DAYTONA」と言う雑誌に紹介されたくらいで、どうやって宿泊者がやって来るかと言うとメキシコシティーにある有名な日本人宿「アミーゴ」からの紹介か、僕のようにネット・サーフィン中に見つけた口コミを頼りにやって来る者が大半らしい。
だから僕も最初は半信半疑だったが、まずは約束された「お富レストラン」へチェックインの手続きで伺った際に全ては解消された。
そこにいた浜田さんは実に朴訥な人柄の、いい人そのものだったからだ。
部屋は1階に2部屋あって、僕の滞在中は世界旅行中でメキシコから渡って来たタカハシくんという青年と言うよりはまだまだ少年のような若者がもう1部屋に泊まっていた。
冷蔵庫も台所もトイレも風呂も共同ではあったが、共に忙しい旅人のお互いが交わる時間はほとんど無く実質、LAライフを1人で満喫しているようなものだった。
そして、どこへ行こうが日本食を好んで食べる僕にとって、同じ経営の「お富レストラン」がすぐそばにあるのは実に便利なだけでなく、思わぬ恩恵にも授かり続けた。
浜田さんはレストランが休みの日も閉店後もいつも、レストランの厨房に立っては料理の研究をしている。
そして、宿泊者には毎晩のように料理の余りものを無料で提供してくれるばかりか、カリフォルニアロールや秋刀魚といったメニュー品までご馳走をしてくれた。そして、それがまた美味い!
元々の浜田さんはバックパッカーだったが、料理の腕前はと言うと「ヨーロッパのレストランで住み込みで働いたくらい」らしく、それも「当時は旅先で食っていける手っ取り早いバイト」として経験を積んだことがあるくらいだったらしい。
この職に就くまでは10年ほど、ダウンタウンにある有名な安宿「チェトウッド・ホテル」で働いていたが、オーナーからホテルを譲りうける話が消滅し、同時期に話のあったこの60年余り続く古く小さな日本食レストランの経営譲渡へと方向転換したらしい。
そして今、この「お富レストラン」は浜田さんと古くからの友人でもあるLA在住の弥生さんという女性、そして日本の某一流企業を辞めて単身LAへ渡って来た根岸くんという青年の3人で切り盛りしている。
3月23日、WBC決勝観戦前に食べたカツ丼
その御利益はイチローのバットへと乗り移った?
僕の滞在中、「お富レストラン」は盛況だった。
客層はさまざまだが、あの「ロサンゼルス・タイムス紙」に暖簾が60年も続くLA最古の日本食レストランとして紹介された効果もあったらしく、最近は盛況が続いていると浜田さんは言っていた。
僕も今までずいぶんと世界中あちこちを旅させていただいたが、浜田さんのように金欲も無ければ裏表も無く飾り気も無い、ただただ実直に生きているようなオーナーは初めて出会った。
もちろん、旅先で同じように「いい人だなぁ」と感じたことは今までにも多々ある。そんな多々ある中でも浜田さんと短きながらも接して感じた人柄は格別の感を覚えるほど温かく、朴訥とした語り口は愛媛の離島で育った生き方がそのまま今に至っているかのようだった。
それらを裏付けるかのような話がある。
訊けば、見習いのように厨房で働く根岸くんは関東にある某国立大学の大学院を出て大手の製作所へ入社したがそこで挫折を味わい、日本社会を飛び出してLAまでやって来たらしいが、大学院時代の恩師が連れ戻しに来ても、「ここがいい」と言って帰らなかったそうだ。
浜田さんは「もったいない」と悔やむが、きっと根岸くんは浜田さんの人柄に、日本社会で得られなかったものを感じているんだと思う。僕の勝手な推測だが…。
LA最古の日本食レストラン「お富レストラン」店内に立つ浜田さん
写真を撮らせてもらった僕に撮影後浜田さんは礼儀正しくお辞儀をした
WBC決勝で日本が延長戦を制し連覇を果たした3月23日の深夜、時計の針は深夜1時半を過ぎていたのに「お富レストラン」の灯りはついていた。
裏口をノックして中へと入れてもらい、浜田さんとささやかな祝杯を挙げた。
僕の声はもうガラガラ。浜田さんはしきりに「よかった、よかった」と喜んだ。
その翌日、部屋の鍵を返しに開店前の店へお邪魔すると、浜田さんは朝食代わりに大盛りのカレーライスをご馳走してくれた。
お代を払おうとする僕に、「余りものをご馳走させてお金をいただくなんて料理人の風上にもおけませんよ。もっとも、わたしはエセ料理人ですが。ハッハッハ」と笑った。
あの青い空と浜田さんが懐かしい。
また会いたい、いつの日か。
---------------------------------------------
はまだ宿
2415 East 1st Street, Los Angeles, CA 90033 U.S.A.
http://www.geocities.jp/hamadajyuku/index.html
hamadajyuku@yahoo.co.jp
Tel: 1-323-526-1150(14:00-22:00 日曜除く)
予約はメールか電話で。
ちなみに、メールの送受信は根岸くんで浜田さんは伝え聞いたものを口頭で応えるだけらしいです(笑)。
あしからず。
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